最高裁判所第一小法廷 昭和62年(あ)1051号 決定 1988年10月24日
主文
本件上告を棄却する。
理由
一弁護人戸田隆俊の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は事案を異にして本件に適切でなく、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
二所論にかんがみ職権で調査するに、記録により明らかな本件訴訟の経過は、次のとおりである。
起訴状記載の公訴事実の要旨は、被告人が、普通乗用自動車を業務として運転し、時速約三〇ないし三五キロメートルで進行中、前方道路は付近の石灰工場の粉塵等が路面に凝固していたところへ、当時降雨のためこれが溶解して車輪が滑走しやすい状況にあったから、対向車を認めた際不用意な制動措置をとることのないよう、あらかじめ減速して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前記速度で進行した過失により、対向車を認め急制動して自車を道路右側部分に滑走進入させ、折から対向してきた普通乗用自動車に自車を衝突させ、右自動車の運転者に傷害を負わせたというものであったが、検察官は、第一審の途中(第六回公判)で、右公訴事実中、「前方道路は付近の石灰工場の粉塵等が路面に凝固していたところへ、当時降雨のためこれが溶解して車輪が滑走しやすい状況にあったから」という部分を、「当時降雨中であって、アスファルト舗装の道路が湿潤し、滑走しやすい状況であったから」と変更する旨の訴因変更請求をし、右請求が許可された。
第一審裁判所は、右変更後の訴因につき、本件事故現場付近の道路が格別滑走しやすい状況にあったことを被告人が認識し、あるいは認識し得たと認めるには疑問が存するので、被告人には前記速度以下に減速すべき注意義務があったとは認められない旨の判断を示し、被告人に対して無罪を言い渡した。
検察官は、右判決に対して控訴を申し立て、原審において、当初の訴因と同内容のものを予備的に追加する旨の訴因追加請求をしたところ、原審裁判所は、右請求を許可し、事故現場の状況とそれに対する被告人の認識等についての証拠調を行った。
原判決は、第一審及び原審で取り調べられた証拠によれば、本件事故現場付近の道路は、石灰が路面に付着凝固していたところへ折からの降雨で湿潤して滑走しやすくなっており、被告人がそのような状況を認識していたものと認められるから、被告人が右状況を認識していたとは認められない旨判断した第一審判決には事実誤認があり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるとして、右判決を破棄した。そのうえで、原判決は、原審において予備的に追加された訴因に基づき、被告人が、普通乗用自動車を業務として運転し、時速約三〇ないし三五キロメートルで進行中、対向進行してきた普通乗用自動車を進路前方に認めたが、当時被告人の走行していた道路左側部分は、付近の石灰工場から排出された石灰の粉塵が路面に堆積凝固していたところへ折からの降雨で路面が湿潤し、車輪が滑走しやすい状況にあったのであるから、対向車と離合するため減速するにあたり、不用意な制動措置をとることのないようあらかじめ適宜速度を調節して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然右同速度で進行し、前記対向車に約三四メートルに接近して強めの制動をした過失により、自車を道路右側部分に滑走進入させて同対向車に自車前部を衝突させ、同対向車の運転者に傷害を負わせたとの事実を認定し、被告人を罰金八万円に処した。
三ところで、過失犯に関し、一定の注意義務を課す根拠となる具体的事実については、たとえそれが公訴事実中に記載されたとしても、訴因としての拘束力が認められるものではないから、右事実が公訴事実中に一旦は記載されながらその後訴因変更の手続を経て撤回されたとしても、被告人の防禦権を不当に侵害するものでない限り、右事実を認定することに違法はないものと解される。
本件において、降雨によって路面が湿潤したという事実と、石灰の粉塵が路面に堆積凝固したところに折からの降雨で路面が湿潤したという事実は、いずれも路面の滑りやすい原因と程度に関するものであって、被告人に速度調節という注意義務を課す根拠となる具体的事実と考えられる。それらのうち、石灰の粉塵の路面への堆積凝固という事実は、前記のように、公訴事実中に一旦は記載され、その後訴因変更の手続を経て撤回されたものではあるが、そのことによって右事実の認定が許されなくなるわけではない。また、本件においては、前記のとおり、右事実を含む予備的訴因が原審において追加され、右事実の存否とそれに対する被告人の認識の有無等についての証拠調がされており、被告人の防禦権が侵害されたとは認められない。したがって、原判決が、降雨による路面の湿潤という事実のみでなく、石灰の粉塵の路面への堆積凝固という事実をも併せ考慮したうえ、事実誤認を理由に第一審判決を破棄し有罪判決をしたことに違法はない。
よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官佐藤哲郎 裁判官角田禮次郎 裁判官大内恒夫 裁判官四ツ谷巌 裁判官大堀誠一)